映画「左様なら」レビュー

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映画「左様なら」レビュー

 

吉祥寺アップリンクにて

映画 左様なら を鑑賞してきました。

感じたこと、考えたことをまとめます。

※ネタバレあります

 

「余白」

映画を通して、

主人公ゆき含めその周りのキャラクターたちが

何を考えて何を感じているのか、

明確にわかりやすく描かれていない。

 

最後まで、誰が何を考えてそうしたのか、

答えが提示されない。

 

作品には常に 余白 が存在していて、

どんな解釈をつけても納得できるような、

観客を信じて任せてくれているような気がした。

 

そしてそこには正解がなくて、

監督もそれをわかってつくってるような気がする。

 

わたしが普段生活していて感じる、

余白の存在を許さない合理主義的な

強迫観念のようなものから解放されて、

自由に感じたり考えたりできる作品だった。

 

作品中ずっと、

俳優さんの表情から何かを汲み取ろうとするんだけど、

絶対的にわかりやすくはしてくれてないから(笑)

これってすごく現実的な映画だなと思った。

 

だって、普段の生活でわざわざわかりやすく

「わたしは本当はこう思っているけど

自分自身でそれには気づいていなくて、

これこれこういう理由でこうしたんだよね」

っていちいち説明してくれる人なんて

そうそういない。

 

そもそも自分の感情を的確に感じてそれを言葉にして、

人にわかりやすく説明するなんて

なかなかできない。

 

ていうか、それがわからなくてみんな悩んでるし、

簡単にわかっちゃったら面白くない。

そんな、余白について、考えた。

 

うすい灰色っぽい青春

この映画は紛れもなく青春群像劇なのだが、

爽やかさはない。

 

ディスってません、

気に入ったところです。(笑)

 

舞台は海の近くの学校とその周辺で、

いい感じに小さい駅から電車に乗って学校に通うような

絶対にキラキラしたことが起こりそうなところ。

 

学生時代特有のヒエラルキーとか、

敏感に変わっていく人間関係とか、

学生的な恋愛的要素とか、

ちゃんとあるんだけど、キラキラではない。

 

そこに時間が流れているって感じ。

 

よくある映画やドラマのキラキラって、

あるあるのようで、そうそうない。よね?

 

この作品の教室内は、

ある意味本当の「あるある」なきがする。

青春時代って、実際のところはこうだよね?と思った。

 

教室の絶妙なバランス

社会人になってしまうと、

学生の頃どんな風に生活していたのかなんて

ほとんど忘れてしまっている。

 

私の場合は、確か学生時代は何も考えずに

ただ楽しくやってきたように記憶を改竄してしまっているが

(まあそのとおりなんだけど)、

確かに、みんな敏感に教室のバランスを感じとりながら

自分の立ち位置を確認しながら生活していたようにも思う。

 

作品中、小さな事件や大きな事件が起こるが、

それに対して教室のみんながそれぞれの反応をしながら、

それぞれがポジションを確認しているようにも思えた。

 

登場人物それぞれのキャラクターがあるが、

学級会長的な子、おとなしくて目立たない子、

人気男子のグループ、そことつるみたいいじめっ子とその取り巻き、

絶妙にそれぞれの間を取り持つ子。

 

それが良い悪いではなくて、

微妙なバランスで教室が成り立っているんだったな、と

そうだったそうだった、と自分の学生時代を思い返した。

 

意外に、普段静かにしている子が

めちゃ爆発力がある手榴弾を予想しなかった方向に投げて、

それを引き金に、同時多発的に各地で爆発が起こったり。笑

それもまた教室らしくて良い。

 

SNS的な話題の遷移

たまたま私が見に行った回で、

監督と、原作のごめんさんと、カツセマサヒコさんの

トークライブを見ることができた。

 

そこで監督が仰っていたことの中で、

SNSでの急速な話題の遷移について頭にあった、ということが

なるほど作品の中にあったように思う。

 

作中、主人公ゆきの友人あやが亡くなるのだが、

死に対する興味や関心の持ち方、

そしてそこからまた話題や関心の矛先が変わっていく無情さ。

確かにSNS的な流れを感じた。

 

当事者ごととして受け止めて感情的になる人、

何事も他人事のように感じてしまう人、

そしてそれを簡単な言葉にしてしまう人。

どの人も自分の中にいて、そこら中にその自分がいる。

 

SNSではいろんな情報が瞬時に流れていく。

一つ一つの出来事は当事者にとってとても大きなことのはずだけど、

あまりにも情報の数が多いからなのか、

なかなかそれを当事者目線で受け止めることができなくなっているように思う。

 

そして、それが良いのか悪いのかはわからないが、

話題をただ消費してしまっているようにも思う。

 

どの出来事にも当事者がいて、

それは人間である、つまり感情がそこにはあるということを

忘れないようにしたいと思った。

 

大人になりたい

私はあまり思ったことはないが、

本作品の主人公ゆきは少なくともそう思っていたであろう。

 

教室内のボス的いじめっ子主導で、

ゆきは教室の子たちからハブかれることになる。

 

有ること無いこと噂がどんどん広まるのが教室である。

 

誰と誰は最近仲がいい、とか

そんな誰々のことが気に入らない、とか

きっと誰は誰のことが好きなんだろう、とか

そんな話題で日々を過ごす空間。

 

本心はわからないが、ゆきはそんな状況を「どうでも良い」と語る。

 

そして自由に生きている(生きていた?)大人に、質問する。

早く大人になって、このくだらない人間関係の環境から離脱したい、

という思いが描かれているように思う。

 

大人になったら、きっと解決するのではないかという期待。

ゆきから質問された大人は、

「幾つになっても人は変わらない。

それがその人にとって大事な思いなら。」

というようなことを答えていた(と思う)。

 

良くも悪くも、私もその通りであるように思う。

 

死と自分の感情

作品の大きなテーマである、主人公ゆきの友人あやの死。

それに対するゆきの感情。

 

ゆきは中学時代に、あまり馴染みのない先生が亡くなった時、

お葬式で泣かなかった。

 

あやにそれを指摘されて、ゆきはそれに気づいた。

「あまり関わりがなかったから」と答えるゆきに、あやは

「私も関わりはなかったよ」と言う。

 

その日その話をして別れた後、あやは亡くなった。

 

ゆきは、あやのお葬式でも泣かなかった。

泣けなかった、という方が正しいのかもしれない。

 

それからゆきはどこかで、泣くべきことで泣けない自分を

疑問に思って責めていたのだと思う。

 

泣くべきところでは泣くべきだという強迫観念のようなものと、

仲のいいあやの死に対しても泣けない自分。

 

作品の最後では、

そんな自分に対して泣きそうなほど感情的になれた、ゆき。

 

私は身近な人の死は祖父母しか経験していないが、

いつか身近な人の死で泣けない自分がいそうな気がしていて、

ゆきの気持ちはなんとなくわかるような気がしている。

 

普段から感情を殺して生きていると、

自分の感情がわからなくなるし、

そんな風になってしまった自分のことが本当に悲しくなる。

そういう意味ではゆきの気持ちはよくわかった。

 

総じて、解釈は人それぞれたくさんありそうな映画であり、

冒頭に書いた「余白」がとても気に入った。

 

ある意味スッキリしない、悩ましいとも言えるが、

そういう作品の方が個人的には好き。

 

 

全国順次公開していっているので、また見に行けたらいいな。

 

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